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森とつきあう
> Essay : 出羽 寛 / Photograph : 太田 一彦 撮影地 旭川・嵐山

10数年前、やっとのことで我が家を建てた。旭川市の中心街から車で約20分、深い森に覆われた嵐山の麓にある住宅地である。2階は息子2人と僕の部屋の3室。息子たちは通りに面した広い部屋に入りたいと主張、僕は了承してひそかにほくそ笑んだ。裏に面した僕の部屋は2面が窓で、外は雑木林、目の前に嵐山が迫る。年の暮れに入居したが、夕方になると2階に上がりお酒をちびりちびりやりながら真っ白な雪に埋もれた嵐山の森を眺めて楽しんでいた。
庭にはミズナラ、カシワ、ミズキ、ヤマナラシなどが生い茂り、シジュウカラ、ゴジュウカラ、アカゲラなど10数種類の野鳥、エゾリスやエゾクロテンもやってくる。夏の夜、コノハズク(小さなフクロウ)の「ブッキョキョー、ブッキョッキョー」という澄んだ鳴き声が嵐山の森から聞こえてくる。しかし、ここ数年その声が聞こえなくなり心配している。
僕の本職は野ネズミやコウモリの生態調査と学生に生物学を教えることで、昨年春旭川大学を定年退職した後も野外調査は続けている。従って、僕の場合は調査という目的を持って森へ入ることが多い。春も夏も秋も時には冬も。昼間だけでなく、夜の森でのコウモリ調査もある。仕事で森に入るのは必ずしも楽しいわけではない。むしろ煩わしく、苦しいことが多い。暑い夏も寒い冬も、辛抱強くデータを取るために長時間、道をはずれて森の中を動き回る。夏はブユやヤブ蚊の猛襲を受けるし、夜の森で道に迷い、1時間ほど真っ暗な森の中をさまよったこともある。昔は蚊の刺し跡やウルシかぶれを気にしすぎるため、ストレスでよけいにはれたりした。しかし、長年森の中で活動していると、そうした煩わしさも徐々に受け入れられるようになってきた。そのせいか、最近はあまり蚊に刺されなくなったしウルシにも強くなった。考えてみると、昆虫少年だった僕は子どもの頃から嵐山へ通い、その度にウルシにかぶれてつらい思いをした。それでもめげずに出かけたのは、森の中の湿った甘い香りと、黒に黄色、オレンジ色のキビタキが恐れる様子もなく目の前の枝で囀っていた、強烈な印象のせいだろうか。
それに若い学生とのフィールドワークは面白い。僕のゼミナールの学生たちは、コウモリ調査でヤブ蚊に刺された跡の数の多さを競い、これが出羽ゼミの勲章だとやせ我慢をする。日没後の蚊の猛襲もおさまり、黒々とした樹木の間から満月が姿を現し、青い空に白い雲がたなびき、遠くからコノハズクの鳴き声が聞こえてくる。幸せなひとときだ。

僕にとって最も快適な時は、早春と晩秋の晴れた暖かい日だ。蚊もブユもいないためのんびりと森を楽しめる。11年前の5月初旬に10日間ほど突哨山(とっしょうざん)の林の中に座り込んだことがある。突哨山は旭川市と北隣の比布町(ぴっぷちょう)との境にある雑木林に覆われた細長い丘陵で、カタクリやエゾエンゴサクなどの春植物の大群落で有名である。そのカタクリの花に吸蜜と受粉にやってくるマルハナバチの訪花頻度を調べることが目的であった。朝6時半頃から夕方6時頃まで、とにかく座り込んで、ブーンという羽音を頼りに5メートル四方の区域内に飛んでくるマルハナバチの記録を取るだけである。離れるわけにはいかないから、後ろを向いて、その場でおしっこをする。1週間も経つと、草が枯れその場だけ黒ずんでしまった。
毎日毎日そうして動かずにいると、歩き回るよりもさまざまなものが見えてくることに気が付いた。エゾリスが横目でこちらを見ながら、10メートルほど離れた倒木の上を伝って遠くの枯れ木に上っていく。何をしているのか双眼鏡を覗くと、噛み取った木くずを口いっぱいにくわえている。巣材を集めているのだ。
その倒木の下にときどき野ネズミの一種エゾヤチネズミがちょろちょろと現れる。その野ネズミがカタクリの花を好んで食べるのを発見した。小さな谷の中空で、オオルリの雄がくるり、くるりと舞っている。1週間も経つと、カタクリの花が枯れ、オオバナノエンレイソウの白い花が開き始める。樹上ではサクラの花もほころび、ハチは地上だけでなく樹上にも上がっていく。
そして、もうひとつ驚いたことがあった。マルハナバチが頻繁に訪れているときは記録に忙しいが、1時間も2時間も来ないときもあり、そういうときはハチの羽音に気をつけながら論文や本を読むことにしていた。ところが4、5日も経った頃だろうか、ふと気が付くとめがねがなくても苦にならずに文字が読めるではないか。もう何年も前からめがねが必要になっていたのに。林の中に座って、周りを見ているだけで目が良くなっていたのである。ただし、調査が終わって夜更かしと酒が入ると、視力は元に戻ってしまった。